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第65話 砕ける黒い鏡①

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-04-11 06:00:08

 指先を滑るシルクの感触は、どこまでも滑らかで、ひどく頼りない。

 新しく届いたばかりの純白のブラウスを、広大なクローゼットの奥へと静かに吊るした。カチャッ、というハンガーの硬い金属音が、厚手の衣類に囲まれた密閉空間に吸い込まれて消える。

 雨の夜に拾われてから、世界は完全に塗り替えられていた。

 ここは豪華な鳥籠。あるいは、逃げ場のない酸素室。

 夜になれば、当然のように巨大なベッドへと引きずり込まれる。丸太のように太い腕に絡め取られ、火傷しそうなほどの高体温と、獣のウールのような重い匂いに包囲されて朝を迎える。最初は心臓が止まるかと思うほど恐ろしかった抱き枕の業務も、数日も経てば、身体は奇妙なほどその圧倒的な質量に馴染んでしまっていた。

 有栖川家の地下室で、カビ臭い毛布にくるまって震えていた夜。それに比べれば、この暴力的とも言える物理的な熱に守られているという事実は、毒のように甘く理性を侵食していく。

 クローゼットの扉を閉め、パノラマウィンドウから初夏の日差しが降り注ぐリビングへと足を踏み入れた。

 光
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    「罠でも、行きます」 はっきりと、言葉を紡いだ。「……は?」 白亜の目が、信じられないものを見るように見開かれる。「行くって、どこに? そいつの研究室に?」「はい」 ティーカップの横に両手を置き、背筋を伸ばす。「私の力が、本当に命を削るだけの不吉なものなのか。それとも、お祖母様が私に何かを託してくれたのか。……それを知りたいんです」「死ぬかもしれないんだよ!? いや、間違いなく解剖されて標本にされるって!」 白亜が身を乗り出し、バンッとテーブルを叩いた。 周囲の客たちが何事かと視線を向けるが、白亜はまったく気にする様子もない。「ノワールがどうしてあんなに必死になってお姉さんを遠ざけたと思ってるの! お姉さんが自分から罠に飛び込むなんて知ったら、あの黒竜、今度こそ完全に理性を飛ばして東京ごと焼き尽くすよ!」「だから、黎様には言いません」 静かに、けれど絶対に譲らない意志を込めて白亜を見つめる。「私が自分で決めたことです。……もし、力が切り離せるなら、それはそれでいい。黎様が苦しまなくて済むなら。でも、もしそれが嘘で、お祖母様の手記に本当の答えがあるなら、私はそれを取り戻さなきゃいけない」 有栖川の屋敷の地下で、一人で震えていた頃には戻らない。 閉ざされた扉の前で、ただ泣いているだけの私じゃダメなのだ。 白亜のアイスブルーの瞳が、困惑と、苛立ちと、そして僅かな感嘆の色を交えて揺れ動いている。 長い沈黙が、テーブルの上に降りた。 クラシックピアノの旋律だけが、焦燥感を煽るようにテンポを速めている。 やがて、白亜は乱暴に自分の真っ白な髪を掻き乱し、天井を仰いだ。「あーもう! ほんっとに、人間って頑固で馬鹿! ノワールが狂うのもわかる気がしてきた!」 白亜は大きなため息をつき、テーブルの上の黒いカードを二本指で摘み上げた。「わかった。……一人で行かせたら、あとでノワールに何をされるかわかっ

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    「お姉さん……。私、竜だよ? 人間なんて、本気出せば一息で丸焦げにできるんだよ?」「知ってます。でも、今はただの、ケーキが好きな女の子でしょう?」 もう一度、ナプキンで口元を優しく押さえる。 ひんやりとした皮膚の感触。 白亜はパチパチと何度か瞬きをした後、急に顔を真っ赤にして視線を逸らした。「……っ、人間って、ほんとに変! そんなに無防備に近づいて、いつか食べられちゃうからね!」 フォークを乱暴に動かし、モンブランを崩し始める。 その怒ったような声の裏側に、どこか照れ隠しのような響きが混ざっているのを感じて、胸の奥が少しだけ温かくなった。 黎も、白亜も。 人外の恐ろしい怪物だと言われているけれど、その内側にあるのは、痛みを恐れ、孤独を持て余している、ひどく不器用で純粋な魂だ。 テーブルの下。 左手で覆い隠していた黒いカードの感触を、もう一度確かめる。 普通の未来。 力がなくなれば、命が削られる恐怖からは解放される。 でも、私が普通の人間になって、黎との繋がりを安全なところから見守るだけの存在になったら。 永遠の時間を生きるあの人に、私は「私のままで」触れることができるだろうか。『あなたの祖母君が、かつてあの奈落の底で何を調べ、何を書き残したのか』 ヴィクトルの残した言葉が、再び耳の奥で蘇る。 有栖川の呪い。祖母の記録。 私の力が、ただ命を削るだけの使い捨ての道具なのか、それとも、別の意味を持っているのか。 それを確かめない限り、私はペントハウスの閉ざされた扉を、もう二度と叩くことはできない。 テーブルの下から、黒いカードをゆっくりと引き抜いた。 銀色の縁取りが施された硬い紙片が、ホテルのラウンジの照明を反射して鈍く光る。「……白亜ちゃん」 静かな声で呼びかけると、白亜がモンブランを口に入れたまま顔を上げた。 テーブルの中央に、その黒いカードを滑らせる。「これ、さっきの匂い

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    「竜の寿命はね、人間なんかとは比べ物にならないくらい長い。千年も二千年も、ただ息をして、空を飛んで、終わりのない時間を生きるの。その果てしなく続く退屈な時間の中で、ただ一つ、自分の魂と完全に共鳴する存在。それが番」 ラウンジの奥で奏でられるピアノの旋律が、少しだけ悲しげな短調へと変わる。「だから、竜は番を見つけたら、絶対に手放さない。世界の端から端まで追いかけて、骨の髄まで自分のものにしようとする。……ノワールが、お姉さんに対して異常なくらい執着してたのは、そういう竜の常識があるから」 白亜は口元のクリームを舌でペロリと舐め取り、テーブルに肘をついた。「でもさ。人間は、すぐに死んじゃうでしょう?」 残酷なまでの正論が、暖房の効いた空間の温度を急激に下げたような錯覚。「竜にとっての数十年なんて、ほんの瞬きみたいな時間だよ。その短い瞬きが終わったら、残された竜は、また永遠に続く孤独な時間を、たった一人で生きなきゃいけない」 白亜の瞳の奥で、何かが微かに揺らぐのが見えた。「番を失った竜はね、狂うの。自分の魂の半分をもぎ取られたのと同じだから。痛くて、苦しくて、世界中の全部を壊してしまいたくなるくらい、深い絶望に落ちる。……ノワールが今、お姉さんを遠ざけてるのは、その恐怖に気づいたからだよ」 心臓が、ドクンと大きく音を立てた。 黎が、怖がっている。 私の命が削られること。いずれ私が先に死んで、彼一人を残していくこと。『俺の肺など、このまま千切れて腐り落ちた方が何万倍もマシだ』 昨夜、書斎のドア越しに響いたあの悲鳴のような声の理由が、白亜の言葉によって明確な輪郭を持って浮かび上がる。 黎は、私が役に立たなくなったから捨てたのではない。 人間という脆すぎる存在を番に選んでしまったことの、途方もない代償の重さに耐えきれず、自ら扉を閉ざしたのだ。「……だから、人間の女の子を番にしちゃうなんて、ノワールは本当に馬鹿なの」 白亜は不満そうに口を尖らせ、三つ目のモンブランに手を伸ばした。

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